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May 31, 2005

奇跡の形

以前からあるアイディアの覚え書きを書いておく。ただしWikipedia的に言えば「この項目は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをしてくれる協力者を求めています」と言ったところでまだ調査不足や調べたりない部分が山のようにあるのでそれを了承して読んで欲しい。
 そもそもの元のネタは、複数の神話を読んだときにその中で書かれる奇跡や超常の力に宗教や民族性ごとに違いがあると言う事だった。もちろん、違いがあるのは当然の事なのだが、ここで気になったのはその力や奇跡の裏付けや使えるときのルールが結構その世界観や宗教のバックボーンが反映されているように見えて興味深いのである。
 
 例えばキリスト教的世界観での奇跡からまず見てみよう。キリスト教の奇跡の定義やシステムはローマカトリックで明確に定義されているのが特徴だ。例えば病気などの治癒に関して言えば複数の医師の所見と患者の所属する司教区による治癒後の追跡調査を含む綿密なものになっていて医療不可能な難病が別の治療なしで自然に突然に、通常の回復期間をすっ飛ばして完全に治り、再発せず、医学による説明が不可能でなくてはいけない。
しかも、精神障害や神経障害による機能障害は審査の対象にはならない。
自己暗示でも治りそうな心身症は問題とされていない。
抗生物質が出てきてからは結核性の病気は認定の対象から外されている。
など非常に厳格なものになっている。またその奇跡の仕組み自体も神学的に明確に定義されていて、厳密には世界のルールを決めた神だけがそのルールの変更や運用を変えることが出来るが他のものは一切それにタッチできないと言うものだったと思う。それでは何故奇跡が起こりうるのかと言えば、奇跡を起こしたものはその人自身が起こしたのではなく、あくまで神がその願いを認証する形で奇跡が生じたというのである。

対してキリスト教の流れを全く引かないヒンドゥー教の奇跡を比べてみると面白い。インド神話の聖典「パーガヴァタ・プラーナ」のエピソードの中に一億年(!)もの間修行を重ねた偉大な行者「マールカンデーヤ」があまりにも巨大な修行の成果を手に入れた結果、天上界の覇権が脅されることを恐れたインドラ神が愛神カーマなどを送り込んで誘惑を図ったり、シヴァ神が神々すら焼き尽くすことが出来る力を持つ第三の目を開いて焼き殺そうとしたところそれを跳ね返したなどとと言う逸話があるくらいで、奇跡の力はあくまで当人の修行の成果として与えられ神や人間といった立場の違いすら関係ないものなのである。

それでは仏教はどうかというとこれが一口で言うのが難しい。というのも仏教の場合、宗派によって根本的な考え方自体が異なっているからである。そのため悟りとか救われかたと言った根本部分でさえ異なっている状態で、もちろん奇跡の定義なども宗派によってバラバラなのである。だがその中で、一番興味深い奇跡の解釈は「奇跡=世界のバグ」説というものだ。これは映画マトリックスの中でもネタに使われているくらいで、要は世界は精密に作られてはいるが所詮は不完全なものであり、奇跡や超常の力というものはそのシステムのバグを付いたり、この世界のシステムとは違う別の世界の力を引っ張ってきたりして起こすものだと言うものである。

こうしてみると、単に奇跡と言ってもその裏に様々な世界観が反映されているのが判ると思う。残念ながら個々の話について深く調べていないので間違いがある可能性があるし、逆にもっと興味深いエピソードなどがあるかも知れない。いつかそうしたものを補完してもっとちゃんとした考察にしたいと思っている。また今回は原典として世界の神話や宗教上の奇跡を取り上げたが、さらに調査対象を架空世界の話(ファンタジーやSF)などにも広げるとさらに面白い事が見えてくるのではないかと思っている。さすがにそこまで手を広げるゆとりが無いのであるが、もしこれで興味を持った人がいたらぜひやって欲しいと思っている。

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