教育を解決方法にするいかがわしさ
ARTIFACT@ハテナ系の記事を読んで思ったのだが、なにか事件や問題が起きたときに教育や個人のモラルを説く人たちに感じるいかがわしさの理由がようやく解った気がした。
つまりそれは問題を個人の内面に限定し、政府や企業などのシステム側の問題を不問にしている点がいかがわしく感じるのだろう。この理屈でいけば既得権を持つ側は安泰だ。全ての問題は個人にあり、自分達の既存利益の元になっているシステム側には何の問題も無く変更する必要も無いからだ。
ついでに言わせてもらえば自己責任という言葉の使われ方も同じようにずいぶんいかがわしい使われ方がされているように思える。本来、自分の責任において決定しリスクを負う代わりに自己決定権を行使すると言う意味の筈で、「いい学校・いい会社・いい人生」みたいな横並びの生き方から抜け出て「個」を確立した生き方を提唱する筈だったのに、いつの間にかどんな失敗も自分の責任だと言う意味になってしまった。しかも本来こうしたリバタリズム的な主張は「移民の自由」「婚姻制度の廃止」「裁判所、刑務所の民営化」「姓名の自由な変更」のようなラジカルな主張も含まれる筈だったのに何故かこうした点は言及されない。
それにしても不思議なのはこうした「保守」的な主張は本来既存システム上部にいる人たちが主張するものなのだが、ネットなどを見ると明らかに既得権のない人たちが主張している事である。
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