1945年3月10日東京
先週末、浅草を歩いていると東京大空襲の慰霊祭の案内があるのを見つけた。そういえば3月10日は8万人以上(10万人とも言われる)の死者を出した東京大空襲のあった日だったのを思い出した。なんでも浅草を中心とした下町はもっとも被害が大きい場所だったという。
ところで東京大空襲に関して個人的に気になるニュースを見つけたので少しそれに触れてみたい。
2005年3月6日(日)「しんぶん赤旗」
一九四五年三月十日。二時間余りの爆撃で約十万人が亡くなった東京大空襲。米軍は、これに先立ち米国・ユタ州の砂漠に日本の木造家屋を建て、焼夷(しょうい)弾の燃焼実験をくりかえしていました。「東京大空襲・戦災資料センター」(早乙女勝元館長)に提供された英文資料の研究などから、実験の詳細が明らかになってきました。
米国は一九四一年から、スタンダード石油副社長を中心に新型焼夷弾の開発にあたっていました。四三年の二月から三月にかけ、ユタ州ソルトレークシティー南西の砂漠にダグウェイ試爆場をもうけ、日本とドイツの建物を建設。同年五月から九月にかけて繰り返し焼夷弾を投下して、落下軌道、発火範囲、燃え方、消火にかかる時間など細かいデータをとっています。
(中略)
このような正確な設計が可能だったのは、戦前一九三七年まで十八年間、日本で設計士として働いたアントニン・レーモンドが、米国に戻ってから戦時局に依頼され、設計に協力したからでした。レーモンドは、フランク・ロイド・ライトの弟子として帝国ホテルの設計に携わり、戦前・戦後あわせて四十四年間、日本で多くの著名な建物を設計。「日本近代建築の父」といわれます。
私の大学の卒業研究がフランク・ロイド・ライトだったのでレーモンドの作品や彼のその後の日本建築への貢献もよく知っている。彼自身はとても日本建築を愛していたと言われているが、どんな心境で協力したのだろうか。彼自身は後に「戦争を最も早く終結させる方法は、…日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させること」と語っていたという。
ところで少し話は変わるが、これら対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、戦後日本は航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与されているのを知っているだろうか。もちろん勲章を与えたのは日本政府である。彼自身は「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」とさえ語っていたと言うのに…。
« 日本酒の覚え書き | Main | 謎の石 »
Comments