ネットの言論に潜むわな
松浦晋也のL/Dで自転車の車道通行禁止問題に関してよく言われる疑問「そもそも警察庁の出した文面は、疋田氏が主張するように読めない。疋田氏は文面を歪曲して解釈している」に付いての反論を掲載している。要は「確かに警察庁の文面はそう読めるが、官僚の作文の読み方を知らないと裏に書かれている意図や抜け道に嵌ってしまう」というものだ。記事の中では具体的なその読み方の解説も書いているのだが今回書きたいことはそれではない。
私が気になったのはその中で書かれた以下の項目である。
今回のことで気がついたのだが――ネットの言論では、「ソース」が重要だとされる。主張の根拠を示せというわけだ。
ところが、ソースそのものは、「ソースの読み方」は教えてくれない。従って読み方は「常識」によることになる。
それは、今までにない言論の場を作り出したわけだが、今回の官僚文書のように、常識とは全く異なる読み方を必要とする「ソース」にぶつかると、途端に「誤読」を起こしてしまうことになる。
私としては、最低でも日本の官公庁が発行する公文書については、その読み方がネットの常識となればいいと思う。
実はこの部分がこれからネットで問題になってくるのでは無いのだろうか。そう痛感したのは、これに似た話しを聞いたことがあるからだ。具体的な例を上げよう。
日本で流される海外ニュースの多くは、英語圏のニュースが中心になっている。そしてソースを出せと言われて大抵出てくるソースも日本の翻訳記事が貼られてくる。ところが元の英文の記事と付き合わせた時点で既に、訳者のバイアスや誤訳が入っていることがあるのだ。この場合、日本語の翻訳記事のソースを出しても既に「歪み」が入っていることになる。幸い日本では英語使いが多いので(私にはとても出来ないが)ネットなどでは元の文を出して検証してくれる人が出て修正されることが多いのだが、問題なのはそれ以外の言語の場合だ。
実はこの場合修正される事は殆ど無いのである。このことに気づいたのは私が貧弱ながらもロシア語というマイナーな言語の学習者だったからであるが、まだロシア語などはいいらしい。アラビア語などになると文化的な違いから驚くべき間違いが全世界に配信されてしまう場合さえあるのである。師岡カリーマ・エルサムニーさんの書いた「恋するアラブ人」からその具体的な例を上げよう。
一九九九年十月三十一日、エジプト航空のボーイング767型機が、カイロに向けてニューヨークを出発した直後、海に墜落した。生存者ゼロと言う悲惨な事故である。
本当に悲惨な事故だった。多くの犠牲者を出したという事実だけでも大惨事だが、飛行機というのは、多くの乗客と彼らを地上で待つさらに多くの人々の再開の夢を乗せて飛ぶ乗り物でもあるだけに、その事故はより悲痛なものである。さらに悲しいことに、このエジプト航空機については、自殺を望んだエジプト人の副機長が、乗客乗員を道連れにして海に突っ込んだ可能性があると、まことしやかにアメリカのメディアによって報道された。
副機長が「神に全てを委ねます」と言う《自殺をほのめかす》祈りの言葉を繰り返す声がヴォイス・レコーダーに残されているというのが、彼らの根拠だった。
ちなみに後で語られるがこの「神に全てを委ねます」と言うフレーズは英語なら"Oh My God!"に当たるごく当たり前のイスラム教徒のフレーズなのだ。しかしイスラム教の知識のないアメリカのメディアはこれを自殺の疑いとして全世界に配信してしまったのである。
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