本当は豊かな、あるいは怠け者の楽園だったソビエト連邦
少し前から始まった主に「はてな」の住人を中心に盛り上がっている議論が面白い。いろんなテーマで語られているのだが、要約すると「資本主義は人間を幸せにするか」と言ったところだろうか。例えば最初の頃のテーマは「利益を追求し生産性を追求しまくっていけば、一部の人の生み出す利益だけで残りの人が食べていけるようになる筈だ」と言うものだった。もちろん現状は一部の人間がその利益を独占し、多くの人が食うか食わずの状況になっている訳だが、その解釈に関してもさまざまな理由や解決法が提示されて面白かった。
まあ詳しくは下の参考Linkを見て欲しいのだが、今回書きたかったことはそれではない(前置きが長いな)。
実はかつてこの話題でも言及された理想社会の一例がソビエトでは実現していたのである。それはどんな社会だったのかを知るために、佐藤優氏の「国家の崩壊」の中から引用してみよう。
まず、いま言われた大衆社会化状況について見てみますと、ブレジネフ時代のソ連というのはとっても“いい社会”だったわけです。
たとえば、職場においては、九時始業の場合はだいたい十時頃出勤して、それからゆっくりと十一時ぐらいまでお茶を飲む。昼の一時になれば昼飯を一時間ぐらいとって食べ、それから夕方の五時には完全にオフィスが閉まっている状態になりますから、だいたい夕方の四時には仕事を終えてしまいます。ですから、月曜日から金曜日までは一日平均三時間半労働です。そして土日は別荘で遊んで過ごします。ほとんどの人たちが郊外にダーチャという、再演付きの小さな別荘を持っていますから、そこで過ごすわけです。そのうえ、夏には二ヶ月の休暇がとれる。
(中略) それに、ブレジネフ時代のソ連社会というのは、欲望が刺激されてどんどん昂進するという形にはなってなかったんです。たとえば、モスクワを例にとると、首都でありながら、モスクワは地理的に奥まっているのでヨーロッパのラジオの中波が入りません。ですから、ヨーロッパの消費生活の情報が一般市民のところに入ってこない。雑誌なんかも全く入ってこないというふうに情報が統制されているので、欲望を刺激するものがない。だから、ラジカセが欲しいと言うことがあっても、ラジカセが買えれば、それで欲望は充足してしまう。次々に昂進する条件がないんです。
要は社会に最初から贅沢品や選択の余地が無ければ意外と人は「そんなものか」と納得してしまうようなのだ。そうは言ってもご存じのように1991年にはソ連は崩壊してしまうのであるが、案外アメリカとの競争という外圧が無ければだらだらとこの「怠惰な楽園」は長続きしたのかも知れない。
関連Link:
・大多数が余裕を持って暮らせる豊かな社会の作り方
・分配が問題なんですよ…。分配がなければ貧困が拡大する。
・むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会
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