1990年代のCG・影像制作を振り返る
昔、関わった会社が綺麗さっぱり無くなってたり、当時は業界内では誰もが知っていた事が今では誰も覚えてなかったりしてる事に気がついたので、もう古参のCG業界人しか覚えていない話を防備録代わりに残しておこうと思う。
学生時代から関わっていたので、自分がCGに関わり始めたのはずいぶん昔の事になる。当時(1990年代)はようやく個人でもようやく影像制作用のソフトに手が届くようになりつつあり、これまで数千万かけて機材を揃えなければ出来なかったCGやビデオ編集が個人でも出来るようになるのではと騒がれた頃だった。当時TVではフジテレビ系列でウゴウゴルーガと言う番組が放送され、このCG部分がパソコン(アミーガ)によって作られていた事は業界人やCGを趣味でやっていた人達に衝撃を与えたものだった。
当時の自分の日記を振り返ると「これでようやく個人でCG製作が出来る時代が来た。これで一人で映画を作ったり、(これまでプロダクションレベルでしか出来なかった)影像制作の仕事を個人で出来るようになるに違いない」と語っているのに自分でちょっと驚かされる。そう、当時は皆バラ色の未来を夢見ていたのだ。
バラ色の未来と言えば、作り手側もそうだった。1994年にはちょうどPlayStaionが発売され、CGを作れる人間は引っ張りだこの状態だった。そして日本初の多くのソフトは全世界に売り出されていた。当然、自分もPlayStationのゲーム開発に加わって「自分の作ったものが全世界でプレイされる」のを夢見ていた。当時の自分の労働時間を振り返ってみると、どうしてこんなペースで働けたのか判らない程だった。なにせPlayStaionのゲーム開発をしながら雑誌の連載を抱え、更には個人でも影像制作の仕事を受けて、更に個人でプロモーションビデオまでも作っていたのだ。
テンションが高かったのはゲーム業界だけでは無かった。今では信じられないかも知れないが、当時はまだCGソフトも多くのソフトが乱立し、そのいくつかは日本で開発されたものだった。まだどのハードやソフトが勝ち組になるか誰にも判らない時代だったのだ。そしてそれは開発する環境側もソフトを遊ぶためのプラットフォームも同様だった。
ゲームやTV・映画以外も同じだった。まだバブルの余韻があった事もあり。建築シミレーション用の影像の需要が高まりつつあり、また多くの建築事務所がちょうどCAD・CGを導入しようとしていたからだ。そして当然ながらCAD・CGソフトでも多くの国産メーカーが参入を計っていた。
あれから10年以上が過ぎた。当時、同じ業界で働いていた人達の多くはWebやスマートフォンなどの新しい仕事に移ったり元の業界へと戻っていって、半分以上も残っていない。当時、精力的に働いていた人達も働き過ぎか体を壊して引退したり、亡くなったりしてしまった。そして当時設立された会社もまた倒産したり吸収合併されて無くなった所もある。CGソフト会社の多くもAutoDeskに吸収され、今はAutoDeskの一人勝ち状態になっている。
仕事としてのCGは寂しくなってしまったが、NMM(ニコニコムービーメーカー)コンテストなど個人のCG製作はむしろこれからが盛況だ。願わくばこれが仕事としてのCGに繋がってくれればと思っている。
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