幸せのしきい値
今思い出すと不思議なのだが子供の頃に父親に組立式ラジオを買ってもらって、組み立てるために半田ごてが来るのをワクワクしながら待っていた記憶がある。半田ごても自分で買えなかったと言う点と朧気な記憶をたどるにおそらく小学生時代の記憶なのだろう。
不思議なのは今から考えると実に些細なことなのに、当時はそれがものすごく楽しみな事で何日もラジオを組み立てる(組み立ててもらえる)日を待っていた記憶があることだ。何せ今から考えると不思議なのだが半田ごての事を考えるだけでその日は幸せに過ごせた位なのだ。それから月日が過ぎても、少し前までは◯◯の事を考えれば幸せと言うものがあった気がする。歳と共にそれは高価な物になってはきたものの、少なくともカタログを眺めているだけで十分満ち足りた気分になったものだった。
月日は過ぎ、最近は思い浮かべると幸せになるものどころか欲しい物さえも思いつかない。とは言え決して満ち足りた生活をしているわけではない、かつて欲しかったものの大半は未だ手に入れられずにいるのだ。
子供の頃の時間が長く感じるのは、初めての経験が一日の大半を占めているからだと言う説がある。あるいは幸せに感じるものもまた、それがもたらしてくれるものが初めての経験に結びついているからなのかも知れない。
物欲に悩まされることは無くなったものの、何を思い浮かべても特に欲しいとは思わなくなるとそれはそれで悲しいものである。
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