実話と間際らしいフィクションを叩く人を見て危惧する事
「ゲーセンで出会った不思議な子の話」と言うのが話題になっているらしい。この話自体の論争には興味がないが、これをフィクションなのに「実話」として書いていると批判している人が何人もいることについてちょっと気がかりな事がある。
それはこうした風潮によって事実だがそれを事実として書けない出来事を伝えられなくなることだ。
分かりにくいと思うので具体的に言えば、例えば途上国の悲惨な事例(児童労働や売春など)を伝える時、内容が内容なのでもちろんありのままに書くわけにはいかない。ましてこれが国内の出来事だったりしたら正確に書けば本人も含め多くの人が傷を負う。しかし書けないと言ってそれらを伝えなければ、悲惨さも伝わらない。
そこでいくつかの点をぼかしたり創作して書くというスタイルが取られるのだが、これまでもそれらに対して(創作した事で生じた)矛盾を指摘して「実はそんなことは無かったんだろう」と言う人が必ず出てくるのだ。指摘した人は正義漢や信ぴょう性を確認したいと言う純粋な動機なのかも知れないが、その中にはこうした悲惨な事例から目を背けたいだけの理由から指摘する者もいる。
批判する方法は違うが、いじめや性犯罪被害者に対して被害に合うのは被害者にも落ち度があるからに違いないと言う言説もこの類だろう。
それに対し、いや今回のケースは違うしそれは極論だろうと言うならそうかも知れない。むしろこれが杞憂ならどんなにいいことかと思っている。
Comments
タイトル、「間際らしい(まぎわらしい)」ではなく、「紛らわしい(まぎらわしい)」では。
Posted by: 通りすがりの校正者 | January 24, 2012 06:13 AM
それして現実と空想の区別がつかなくなり、ありもしないことで国際問題が起こるわけですね
分かります
Posted by: aaa | January 24, 2012 12:32 PM
タイトルがまぎわらしいw
Posted by: a | May 24, 2013 02:39 PM